想 い 出 

「ソウルでの生活はどうですか?」
度々、こうした質問を受ける。

97年10月3日(水)
突然、上司に呼ばれ「中村君、ソウルへ異動だ」と告げられた時、「エッ、総務へ異動ですか?」と聞き返した。この時まで、当社にソウル支店があることさえ知らなかった。それほど、韓国は私にとって“縁もゆかりもない国”だった。


97年10月23日(木)
“老人ボケ”となり記憶でも失わない限り、死ぬまでこの日付を忘れないだろう。
金浦空港に降り立った途端に目に飛び込んで来た今まで見た事もない文字の洪水は、初めて海外生活を経験する私を不安の“どん底”へと叩きこんだ。


97年11月1日(土)
窮屈なホテル暮らしを終え、東部二村洞にあるアパートへと引っ越した。
引越し業者が帰った後、タバコが切れかかっている事に気が付いた。タバコは愛煙家の私にとって、無くてはならない生活必需品だ。だが、なんと言っても部屋から一歩出たら私にとってアマゾンにも匹敵する「ワンダー・ランド」が広がっている。
悩んだ後、タバコの為では致し方ないと意を決し“未体験ゾーン”へと繰り出した。
ところが、日本では其処此処に設置されている自動販売機の姿が見当たらない。看板を見ても何が書いてあるのか分からないのだから、どの店がタバコを売っているのか見当もつかない。当り前の話だが、道行く人に尋ねる事など到底できない。すごすごとアパートに戻り、灰皿に残った“吸いさし”を再利用するハメとなった。
テレビを見ようとスイッチを入れたが、どういう訳か電源が入らない。
運搬中に壊れたのかと思ったらコンセントが電源に差し込まれていない。これではいくら世界に冠たる日本製テレビでも、その性能を発揮するには無理がある。
『不親切な運送屋だな。コンセントくらい差し込んでくれても良さそうなものを…』と思いながら調べると部屋には220V用の電源しかない。このままではテレビに限らず、日本から持ってきた電化製品の殆どが使えない。
テレビもラジオも使えないのだからすることがない。汗もかいたことだし風呂に入り気分転換でもしようと考え浴槽の蛇口をひねると、ナント濁った“ビール色”の液体が勢い良く飛び出して来た。
『暫く使っていなかったせいだろう』と考え10分ほど流し続けたが、色は多少薄くなったものの透明というには程遠い。何時まで待っても仕方がないと諦め、浴槽に身体を沈めたのだが色も色だが“鉄サビ”の臭いがする。洗髪してはみたものの、何となく頭に“鉄サビ”が残っているような気がして仕方がない。この時使った新品の白いタオルは、薄いビール色のタオルへと変身してしまった。
腹が空いてきたので晩飯にしようと思うのだが、コンセントが合わないのだから電機炊飯器は使い物にはならない。しかし、それ以前に蛇口から出てくる“ビール色”の水では、米を炊いたり湯を沸かしてラーメンを作ったりする気には到底ならない。
結局、腹を壊すよりはマシと考え、“酒のツマミ”にしようと日本から持ってきた“柿の種”と“サキイカ”で空腹を癒すこととなった。


97年11月2日(日)
食料と日用雑貨の買出しに出掛けることにした。
先ずは「水」だが、これは近所でコンビニエンス・ストアーを見つけペット・ボトルを大量に買い込み解決した。ビールやツマミも買い込んだが、この時ほどレジスターの料金表示が便利だと実感させられたことはない。この日から約3ヶ月間、私は店にレジスターがあるかないかだけを基準に買い物する店を決めることとなった。
近所で日用雑貨を買い求めても、どうしても足りないものが出てくる。やはり、こんな時にはデパートが便利だろうと考えた。
事務所の近くにあるロッテ百貨店ならロッテ・ホテルの隣だからタクシーに乗りさえすれば韓国語の出来ない私でも辿りつける筈だ。そう思った瞬間、何となく気が楽になり表通りへと飛び出した。空車のタクシーが来たので乗り込むや否や
「ロッテ・ホテル!」
とだけ告げた。
乗ったタクシーはラジオの音がやたら大きくて騒々しい事この上ないのだが、注意することが出来ないのだから耐えるより仕方がない。休日のためか混雑も無く、運転の鼻歌を30分ほど聞かされたところでタクシーが止まった。
運転手は目的地に着いたかのように、メーター料金を確認し私に話し掛ける。『オイ、オイ、ここじゃないぞ。こんなところ来たこともない』と心の中で叫びながら、
「ロッテ・ホテル!。ロッテ・ホテル!」
と大声で連呼すると、
「ア、アァ~」
という返事と共に笑いながら車を再発進させた。建物の名前を確認すると「ロッテ・ワールド・ホテル」と書かれている。この時、ロッテ・ホテルがソウルに2つあることを初めて知った。
随分と遠回りをしたようだが、兎にも角にも目的のロッテ百貨店に到着した。暫し店内を物色していると、今度は急にトイレへ行きたくなった。
「フェア・イズ・ア・レストルーム?」
ジャパニーズ・イングリッシュで近くの女子店員に尋ねると、首を傾げるだけで返事がない。私の発音が悪いのか、それとも彼女が英語が分からないのか…。
「フェア・イズ・ア・トイレット?」
今度は首を傾げて笑う。
こちらとしては笑い事ではなく、緊急事態に直面している。うかうかしていたら百貨店のフロアーを汚さないとも限らないという恐怖心が芽生えて来た。こんな時、人間というのは突拍子も無い行動に出る事を身をもって経験した。
何を話しても通じないという恐怖観念が帰巣本能を刺激したのだろう。私は微笑む彼女を後に表へ飛び出し、客待ちしていたタクシーに乗り込み
「トン・ブ・イ・チョン・ドン!」
と運転手に向かって大声で叫んだのだ。到着するまでの約20分間が私にとっては1時間にも2時間にも感じられるほど長かった事は言うまでもない。
結局、この日の食事はコンビニエンス・ストアーで買ったペット・ボトルの水で作った日本製のインスタント・ラーメンだけとなった。


「そうですねぇ~、とりたてて不便な点はありませんが…」
そう答える度に、赴任当時のことを思い出す。

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