四溟大師


shot 3

   ある外交官の送別会のスピーチで日韓の外交史上、傑出した人物は雨森芳洲で韓国人で雨森に匹敵する人は泗溟大師(サミョンテサ)だと聞きその名前を覚えた。

   その後、西生浦倭城(文禄の役の際に加藤清正が築いた日本式の城)を訪れたときもその名前を聞いた。

   文禄・慶長の役では僧兵としても卓抜した力を発揮したと伝えられる。外交力にも優れ、日本と交渉し捕虜の送還を実現させたという。一体どういう人物だったのだろうか。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
  四溟大師(サミョンテサ、1544~1610)
  僧侶で、またの名を松雲(ソンウン)大師や惟政(ユジョン)という。文禄の役(1592~93年)では僧兵として活躍しただけでなく、戦後処理交渉でも輝かしい功績を残した。
  慶尚南道・密陽の出身で、出家前の名は任応奎(イム・ウンギュ)、号は泗溟堂(サミョンダン)という。故郷で儒学を学び、韓国最古の寺の1つとされる直指寺(チクジサ)=慶尚北道金陵郡=で僧侶となった。1561年には僧科(僧侶を対象に実施された科挙)に合格する。儒教と仏教の両方に通じていただけでなく、禅も探求。31歳で悟りを開いた。
  文禄の役が起こると僧兵を率い、日本軍と戦った。僧軍大将となり、明軍と協力して平壌を防衛。

 



慶長の役(1597~98年)では明の将軍ととともに蔚山、順天の戦いなどで功績を上げた。山の城郭補修、農業奨励、武器製造などでも指導力を発揮したとされる。
  外交の面でも多くの成果を上げた。文禄の役の後、加藤清正と3回にわたって行った交渉では、日本側の厳しい要求を説破した。1604年には使節として日本に派遣され、徳川家康にも会っている。交渉を通じ、日本に強制連行された捕虜のうち約3,000 人を帰国させた。
  密陽には彼をたたえる詞と碑石がある。碑石には、国難がある時ごとに尽力した四溟大師の遺志がいまだに生き続けていることを表している。