浅川巧


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  知人から紹介を受け、昨年の 4月に浅川巧の75 回忌に出席した。ソウル郊外の忘憂里(マンウリ)という共同墓地である。この墓地に眠る日本人はただ一人である。彼は日韓併合の時代に朝鮮の人に最も愛された日本人と言われている。山梨生まれで林業試験所の技師として朝鮮に渡り、白磁の素晴らしさを紹介した人物としても有名と 聞くが一体どんな人だったのだろうか。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
浅川巧(1891-1931)
  1891年 山梨県の農業と紺屋を営む家の二男として生まれる。
  1909年 山梨県立農林学校を卒業し、秋田県の営林署に就職。
  1914 年 1 年前にすでに移住していた7つ上の兄・伯教と母を追って朝鮮の地を踏む。
  朝鮮総督府の農商工部山林科の雇員として就職し、樹種の養苗試験に従事した。この頃、兄とともに当時千葉にいた柳宗悦(思想家、美術評論家)を訪れる。
  1916年 みつえと結婚。京城(現ソウル)で柳宗悦に出会い、工芸に関心を持つようになる。
  1920年 朝鮮人を激励するため、柳夫妻の講演会と音楽会を企画・開催し、朝鮮民族美術館設立計画を立てる。このころ、技手の役職に昇進するが、妻・みつえを亡くす。
  1922年 このころから柳宗悦と共に、朝鮮各地の陶器窯元の遺跡を調査。その内容を関連雑誌に発表、朝鮮陶磁器展覧会を開催するなどした。

 




  1924 年 景福宮内に朝鮮民族美術館を開館。
  1926年 再婚。朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法に関する試験結果を出版。「朝鮮趣味を語る会(後の朝鮮工芸会)」に加わり、茶碗などに関心を傾けた。このころ、「朝鮮の膳」を出版。
  1931年 急性肺炎で死去。遺著として「朝鮮陶磁名考」を出版。

  柳宗悦は浅川巧をこのように哀悼した。「浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮のことを内から分かっていた人を私はほかに知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうして本当に朝鮮人から愛されたのである。死が伝えられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであった。ひつぎは進んで申し出た朝鮮人たちによってかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された」。韓国林業試験場の職員一同が忘憂里の浅川巧の墓の前に建てた碑石には、こんな文が刻まれている。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここに韓国の土となる」