耳塚


shot 12

   文禄・慶長の役は不幸な歴史である。豊臣秀吉に派遣された日本軍が手柄を証明するため朝鮮人の耳を削いで塩漬けにして日本に送ったそうだ。残酷な話である。耳は二つあり扱いにくいので鼻に変わる。秀吉はこれを供養するため塚を作ったが、真の目的はむしろ武威の誇示だったのではと考えられている。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
   京都・東山七条、京都国立博物館と方広寺の間に広がる大和大路の入口に耳塚という変わった名前の土まんじゅう型の墓がある。豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592 ~ 98 年)のとき、日本軍が軍功の証しとして切り落とした朝鮮人の耳と鼻を葬った墓である。
   日本軍は当初、首を切って秀吉に送ったが、大きいので耳に変わった。しかし人には耳が2つあり、功を膨らます恐れがあったので鼻に変わったという。日本軍1人につき3つの鼻が割り当てられる場合もあった。吉川家の記録によれば、40日足らずの期間に3万1,000人の鼻を削いだといい、全体の数は想像もつかない。日本軍は鼻と耳を塩や酢に漬け、日本軍の発進地である名護屋城(現在の佐賀県唐津市)経由で京都の秀吉に送った。
   軍目付はその数を数え、鼻受取状を発行し、論功行賞の根拠とした。ざる一つに1,000~3,800個を入れ、日本軍はこれを馬車に乗せて大阪や京都などを回りながら秀吉の戦勝と武威の証しとして見せつけた。
 


   この侵略戦争で、日本軍に殺されたり、飢餓や病気で亡くなった朝鮮人は100万人とも150万人ともいわれている。当時の人口の20~25%に当たる。日本軍に耳や鼻を削がれた朝鮮人は少なくとも10万人。強制連行された人は9万~14万人だという。戦争が終わった後は、朝鮮には鼻がないまま歩き回る障害者が街にあふれた。日本では朝鮮人被拉致者が使役され、慟哭(どうこく)する声が絶えなかった。それだけ、秀吉の朝鮮侵略は残酷を極めた。
   秀吉は1597年9月27日、朝鮮人の鼻と耳を確認した後、方広寺大仏殿の西に葬って、土まんじゅうの上に五重塔を建てた。そして京都・五山の僧侶400人が供養した。これは朝鮮人の恨みを晴らす慈愍(じみん)心と見られたが、実は秀吉の軍功を宣伝する目的であった。京都の耳塚には約4万の鼻と耳が葬られたという。京都以外にも同様の墓がある。明治政府は秀吉の没後300年に当たる1898年に耳塚を改修し、歌舞伎などで彼の業績を大々的に広報した。国威の発揚になると判断したからである。