済州飛行機格納庫


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   家族旅行で済州島に行ったこ とがある。この島に旧日本軍の軍事施設が残っていると聞き、訪ねてみた。戦争末期に米軍の上陸を想定し、島は要塞(ようさい)化が進められたそうだ。10数個の小型の古墳のように見える格納庫跡が今でもゴマの畑の中に点在している。旧日本軍関連の建造物は破壊すべしとの議論が多かったそうだが、最近は保存の傾向にあると聞く。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
   韓国人はもちろん、済州島の住人でもよく知らないことだが、この島には旧日本軍が作った軍事施設がいまだに数多く残っている。アジア・太平洋戦争末期、米軍にフィリピンを奪われた日本軍は、硫黄島戦(1945.2~45.3)や沖縄戦(1945.4~45.6)を戦い抜いてきたが、すでに壊滅状態に追い込まれていた。大本営は、米軍が九州北部に上陸し、東京に侵攻してくることを予想して済州島を要塞とした。このため、1945年1月には1,000人足らずだった済州島の日本軍は8月には約7万人まで増えた。済州島に駐屯した第58軍は、成山(ソンサン)、日出峰(イルチュルボン)、大正(テジョン)、松嶽山(ソンアクサン)などに軍事施設を構築。そのうち、現存の施設は約80カ所、約700個にも上る。
   大正のアルトゥル飛行場の広さは66万平方メートルで、1926年から30年代半ばに建てられた。日本軍は上海攻撃の際にもこの飛行場を利用した。アルトゥル飛行場は日中戦争が始まった37年から大々的に拡張され、その面積は265万平方メートルを超えるもの
 



だった。農民たちは生活の場を奪われ、強制労働力として借り出されていった。
   この飛行場を利用したのは、九州・佐世保の約2,500人の航空隊員たちだった。慕瑟浦(モスルポ)には彼らの寄宿舎も建てられた。この地域の海岸には、いわゆる人間魚雷を発信させるために掘られた洞窟も無数に存在する。アルトゥル飛行場の遺跡地には、今でも畑の中央に低い姿勢で身をすくめて口を開けている飛行機格納庫が20あまり残っている。フォーククレーンで撤去を試みたこともあったが、30センチメートル以上もの 厚さの鉄筋コンクリートが頑丈すぎて、撤去しようにもできなかったという話もある。
   この周辺には、飛行機整備場、弾薬庫、防空壕、通信施設などが散在する。少しずつではあるが、今では植民地時代の歴史を語る遺跡として、観光客が訪れるようになった。「平和の島」である済州島は、わずか60年前まで「戦争の島」だった。