百済王伝説


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   鄭先生と一昨年、古代史の旅で宮崎をたずねた。その時、百済の王族の親子を宮崎県の2つの神社が奉っていることを知った。1年に一度「師走まつり」という祭りがあり、王子の御神体を村の人々が担いで父親に会わせると聞いた。千年以上の歴史を持つそうだ。ずっと行きたかったが、とうとう今年見ることができた。南郷村という村である。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
   宮崎県の南郷村一帯には、次のような伝説がある。今から約1,300年前、朝鮮半島で百済が新羅と唐の連合軍に滅ぼされ、王の禎嘉王は、長男の福智王、次男の華智王と共に日本に逃げた。王の乗った舟は、最初に安芸の国(現在の広島県)に漂着したが、新しい生活の足場を求めて九州に向かった。しかし、道中に険しい暴風に遭遇し、禎嘉王と華智王を乗せた舟は日向の金ヶ浜に、福智王を乗せた舟は高鍋の蚊口浦に流れ着いた。
   禎嘉王と福智王は、各自が「これからどこに向かったものか」と占った。占いでは禎嘉王に「そこから70~80里離れた山中(現在の美郷町南郷区神門)に行け」という結果が出た。福智王の投げた玉は、「木城の比木」と出たため、2人の王は離れて暮らすことになった。しばしの間、2人は静かな場所で平和に暮らした。
   しかし、すぐに禎嘉王の住む家を探して、朝鮮半島から追っ手が攻撃してきた。禎嘉王は、敵を迎え撃って東郷の伊佐賀で激しい戦いを繰り広げた。その地の豪族が禎嘉王を助けたが、兵士の数が少なく敗戦の危機に直面。その時、福智王が援軍を率いて敵をけ散らした。しかし、この戦いで華智王が
 


戦死した。そして、禎嘉王も矢を受け、その傷がもとで亡くなった。
   村人たちは百済王一族を追悼し、禎嘉王は神門(みかど)に、華智王は伊佐賀に、そして後に比木で亡くなった福智王はその地に葬り、神として祀った。各地に建立された神社と、そこを舞台に催される師走まつりは、村人たちの追悼の情をよく示している。三父子が1年に一度出会うこの儀式は、今も行われている。
   師走まつりは、福智王に祀る比木町の比木神社から禎嘉王を祀る美郷町南郷区の神門神社までの90キロメートルを巡り、2泊3日かけて移動する。毎年陰暦12月に当たる陽暦1月下旬に行われる。
   美郷町には禎嘉王の墓とされる古墳があり、師走まつりでは東郷町の伊佐賀神社で対面した百済王父子が神門神社に向かう途中、この墓に寄って神事を行う。父子が別れるときは、互いにたいまつを揺らして惜別の情を分かち合う。遠ざかる火を惜しむべく眺め、手を大きく振り回して声を張り上げる。「どうか豊かに暮らして、豊かに暮らして」(韓国語で「チャルサラバ」)という叫びが日本語の「さらば」の由来となったとみるのは考えすぎだろうか。