倭 館


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   鎖国時代に唯一の外国との窓口は長崎の出島だったと歴史で習ったが、実は朝鮮半島とはオランダよりも貿易量が多かったと聞く。当時、幕府公認の外国にある日本人町は朝鮮にあった倭館だけである。釜山の龍頭山公園の外れに草梁倭館の碑が残っていると聞き訪ねてみた。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
   朝鮮時代の釜山には日本人が居住し、貿易と外交に従事できる倭館が設けられていた。倭寇に頭を痛めていた朝鮮政府が、彼らに生活の糧を得て平和共生できる拠点として提供した場所だ。倭館に住む日本人は、主に対馬人だった。
   1678年に草梁に移された倭館の面積は約33万平方メートルで、豆毛浦の旧倭館より10倍も広かった。長崎にあった中国商人の唐人屋敷の10倍、オランダ商人が住む出島の25倍に当たるほど広大だった。倭館の新築工事には、延べ125万人の朝鮮人の大工と人夫が動員され、これに延べ2,000人の日本人大工と人夫が加わった。日朝合作の大型プロジェクトが推進されたわけだ。
   新倭館には約500人の成人男女が居住した。およそ3年で交代したため、対馬の成人男子は生涯に一度は倭館で生活した計算になる。1679年には倭館周辺に日本人が通行できる地域の境界が定められた。しかし、倭館に居住する対馬人は、時折、取り決めを破って境界を離れ、紛乱を引き起こした。特
 


に婦女を強奪して外交問題に飛び火することもあったという。対馬人は、本土に召喚される程度で終わったが、朝鮮の女性はさらし首にされるなどの重罰を受けた。
   対馬は倭館を通じて朝鮮から公作米を受け取った。この公作米は、公貿易の決済代金をコメに換算したもので、その規模は、毎年1万6,000袋程度だった。それとは別に朝鮮政府は、日本からの使いに滞在費の名目でコメを与えた。1790年には、その量は公貿易の4分の1に当たる約4,000袋にもなった。この朝鮮のコメは対馬の重要な食料資源となった。
   倭館を経由した私貿易で取引された主な商品は、中国産の生糸と絹、朝鮮産の人参と綿布、日本産の銀貨と銅貨などだった。北京を往来した朝鮮商人が仲介役となった。
   18世紀を前後して東アジアには、倭館を要としてシルクロード、人参ロード、シルバーロードが花開いた。この貿易ハイウエイを往来する財貨の額は、一時、長崎を経由する南方貿易を上回るほどだった。