日本人町


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   日韓併合時代の古いソウルの地図を駐在員の友人が手に入れたので、それを見ながら日本人町のあった地域を歩いて見た。ソウル駅に近い、ヒルトンホテルの近く。もう終戦から60年以上たっているが、よく見ると日本家屋だった建物がところどころに残っている。屋根の形でわかる。木浦も昔は日本人が多かった町で、今でも日本家屋が点在している。今のうちに撮影しておきたい。この写真は釜山で撮影。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
   日本帝国の朝鮮支配は、西洋諸国の植民地支配と比べ、いくつかの特徴がある。そのうち一番目につくのが直接支配である。日本人の官僚、軍人、商人、農民などが朝鮮の隅々まで進出し、行政、軍務、商業、農業などの実権を握り、朝鮮の領土と人民をほぼ完全に押さえた。敗戦の時、朝鮮に駐在していた日本人は90万人を数えた。
   朝鮮の各地には日本人が建てた公共建物と産業施設および住居家屋などが軒を並べた。特に日本人が多く住んだ京城(現在のソウル)、釜山、仁川、木浦(全羅南道)、群山(全羅北道)といった都市には日本人町が栄えた。
   日本人の居留施設は敗戦後、日本人が引き揚げたあともかなりの間、面影を残した。日本人が残したものは帰属財産(適産)として韓国人に払い下げ、そのまま利用される場合が多かったからだ。しかし、1960年代半ばから始まった経済開発は都会の風景を一変しつつあった。その結果、今は日本人町の風景を見つけることはたいへん難しい。それでも、
 


一部の都会で気をつけて探せば、日本人町の面影に巡り合える。仁川、木浦、群山などの港が良い例である。紙面の制約があるので群山を例にあげよう。
   群山は1899年5月1日に開港し、日本へ朝鮮のコメを輸出する港として栄えた。1933年、朝鮮のコメ生産高は1,630石、日本への輸出は870万石、そのうち230万石が群山から輸出された。「コメの群山」という別名はただものではなかった。
   1920年代、群山近郊には100カ所以上の日本人の農場が数万町歩の土地を構えた。当然、群山府内では日本人の銀行、税関、遊郭、学校、寺社、住宅などがびっしりと立ち並んだ。今も群山の内港には朝鮮銀行群山支店、長崎十八銀行群山支店、群山税関、桟橋などの跡地が残っていて、たびたび映画撮影の場所として利用される。その端にある東国寺は、現存の日本式のお寺としては最大のものである。熊本農場の別荘、島谷農場の蔵と庭なども、日本人の威勢をうかがうには絶好の場所である。