下 関


shot 24

最終回


   下関は日韓の歴史を語る上で非常に重要な都市と聞いていたので、この夏、ソウル時代の友人や歴史に興味のある日本の友人と一緒に下関とその近郊の史跡を巡った。参加者14名。鄭先生にも参加していただき解説をお願いした。たまたま運良く、下関で馬関まつりが開かれており、朝鮮通信使の行列も見ることができた。巡見は関釜連絡船を起源とする関釜フェリーのターミナルに始まり、春帆楼、日清講和記念館、赤間神社、旧英国領事館、秋田商会と続いた。

 

 

 
(鄭在貞の解説)
~下関と朝鮮、そして関釜連絡船~
   下関はいま日本一のふぐの水揚げを誇る。下関きってのふぐ料理店である春帆楼は日清戦争の後始末である下関条約を結んだ場所である。下関条約を土台にして日本帝国は本格的に朝鮮の侵略に乗り出した。下関は1883年朝鮮貿易港として指定されてから、日本が敗戦する前まで大陸への窓口として栄えた。一時期ここには外国の領事館が六つもあった。日本列島と朝鮮半島、亜州大陸を結ぶ動脈の要は下関と釜山を往来するいわゆる関釜連絡船であった。
   関釜連絡船は1905年9月に開設された。当時、壱岐丸と対馬丸は片道320キロメートルの航路を11時間で走った。東京から東海道線~山陽線~関釜連絡船を利用すれば、釜山まで60時間で十分行けた。05年の乗船者は3万5,000人だったが、42年には300万人に膨れ上がった。そのときから、関釜連
 



絡船は米国の潜水艦の標的になった。43年、崑崙丸が魚雷攻撃で沈没し、約600人が犠牲になった。45年3月、米国の潜水艦による攻撃が激しくなり、関釜連絡船はついに途絶した。日本帝国はこの事態を予測して下関と釜山まで海底トンネルを掘って、弾丸列車を走らせる計画を立てていた。この弾丸列車の構想が今日の新幹線につながる。関釜連絡船は人間と物資、文化と情報を運ぶ動脈だった。この道には植民地支配と民族差別に翻弄される朝鮮人の涙と恨みがにじんでいた。当時、朝鮮人が書いた小説などにはその様子が生々しく描いている。
   関釜連絡船は70年6月、新しい時代を迎え、新しい形で再開設された。新関釜連絡船は今まで何を運び、またこれから何を求めて走るのか、見極めてほしい。