「日韓交流おまつり」は、北極星
      ―両国民の心を照らす輝き―

「日韓Friend-Ship Committee 08」
委員長  高杉暢也

はじめに
10年前の1998年、“近くて遠い国”とか“似て非なる国”と揶揄された韓国はアジア通貨危機に端を発する経済混乱の最中でした。暗雲の立ち込める中、倒産しかかった会社再建の重荷を背負って赴任しました。競合社がお客様に“「コリアゼロックス」は日本の資本になったからあそこから複写機を買うと利益もキャッシュも日本に流れてしまいますよ”などとアジテイトして歩く状況でした。従って、日本をイメージする「富士」の入った「韓国富士ゼロックス」へと社名を変更することにもお客様のみならず社員にも相当の気を使いました。

21世紀に入り日韓両国の関係は、2002年のワールドカップ日韓共同開催、2003年の日韓交流年、大衆文化開放に伴う映画の「JSA」、テレビの「冬のソナタ」等の韓流ブーム、2005年の日韓友情年などを経て少しは大人の関係になってきたようにも見えます。また、ビジネスもやりやすい環境になってきたことを実感しています。とはいえ、未だに領土問題や教科書問題などでギクシャクすることもあり心が痛みます。しかし、長年韓国に住んでみると、それは一部の政治家やマスコミの動きで、われわれ一般市民は10年前と異なり、すでに“心の和”を持ち始めているようにも感じられます。

2005年の日韓友情年にスタートした「日韓交流おまつり」、3年目の昨年はソウルのど真ん中で、7万人余の韓国人と日本人とが一体化し、天地を駆ける歓喜を生み出しました。そして、両国民の友好親善のシンボルとして 北極星 のごとく天に輝きはじめました。
この北極星のような存在の「日韓交流おまつり」がどのように誕生し、これからどこに行こうとしているのか・・・2005年当時、ソウル・ジャパン・クラブ(SJC=在韓日本人会ならびに商工会議所組織)理事長並びに「日韓友情年2005現地推進本部」本部長を務めた責任者としてこの「日韓交流おまつり」の来し方行く末を展望してみたいと思います。

「日韓友情年2005」と「日韓交流おまつり」
遡れば2003年6月、小泉首相と盧武鉉大統領は日韓両国民の相互理解と友情を増進することを狙いとして、日韓国交正常化40周年にあたる2005年を「日韓友情年2005」と定めました。「日韓友情年2005」記念行事は、日本では日本画家の平山郁夫画伯を委員長とする実行委員会、韓国ではクムホ文化財団の朴晟容理事長を委員長とする実行委員会が主催組織となり、記念行事をスタートさせることになりました。これらを韓国側でスムーズに推進するための支援組織として、官民一体の「日韓友情年2005現地推進本部」が2004年7月に発足し、パンフレットの作成や公式サイト(http://www.jkcf.or.jp/friendship2005/)の立ち上げなどを始め、学術、芸術、スポーツ、政治、経済、社会などを含む幅広い分野からの支援活動がはじまりました。

2005年に入り、日本側実行委員会は事業推進のシナリオを“「序」:知り合い=日韓友情の出会い、「破」:汗を流し合って=日韓友情の体験、「急」:唱いあう=日韓友情の未来”と決めました。それに沿って、“進もう未来へ、一緒に世界へ”をスローガンに、両国の間に700余件の交流イベントが計画され、実行に移されました。途中、「竹島」、「教科書」、「靖国神社参拝」などの政治問題で波風が立ち、NHK交響楽団演奏や青少年サッカー大会などいくつかのイベントが順延や中止となりました。関係者は両国の前途ある青少年に悪い影響を与えるのではないかと心配もしました。しかし、松竹大歌舞伎近松座の人間国宝・中村鴈次郎演じる「曽根崎心中」、NHKとSJC共同主催の「NHKのど自慢インソウル」、両国外務省主催の「日韓交流おまつり」、宝塚歌劇団公演、NHK-MBC合作の「日韓交流コンサート」、未来に向けた「青少年日韓シンポジューム」等、その多くが好感を得て、無事に終わりました。

中でも、9月24日に開催された両国外務省主催の「日韓交流おまつり」は格別でした。秋晴れのもと大学路周辺で開催され、メインステージで両国の太鼓や踊りが披露されました。パレードは東大門警察の大々的な協力体制のもと、17時半から21時まで6車線道路を全面閉鎖して、両国併せて約2000人によるパフォーマンスで賑わいました。韓国から「鳳山仮面劇」や日本からの「佐渡おけさ」などの伝統芸能や地域芸能が繰り広げられ、続いて“日本のよさこいフェスティバル”では両国の若者が、それぞれに伝統舞踊を現代的にアレンジしたパフォーマンスで会場を盛り上げました。最後の“日韓提灯フェスティバル”では日本の「秋田竿灯」、「山鹿灯篭踊り」、「青森ねぷた」が所狭と練り歩き、韓国からは「能仁禅院釈迦像」が見事な行列を繰り広げ、5万人に及ぶ観衆とともに両国の友情の高まりは頂点に達しました。

“両国の文化や習慣の違いはあるものの、そして両国の間には波風が立つこともあるけれど日本の祭りと韓国の祭りが一体となり、日本人と韓国人はこんなに仲良くなれるのだ、こんなに一つになれるのだ”ということをまざまざと見せつけてくれた第1回目の「日韓交流おまつり」でした。

2006年の「日韓交流おまつり」
「日韓友情年2005」事業報告の「日韓の市民交流と相互理解の促進に関する提言」の中で、韓国を研究する哲学者として知られる小倉紀蔵委員は“「韓流」や「ルックコリア」を通じて両国はインタラクティブな(相互作用する)関係を構築する時代になった。そして今や、両国は「イデオロギーの日韓関係」や「反発感情の日韓関係」ではなく、「クリエイティビティの日韓関係」に転換する絶好のチャンスを迎えたのである”と強調しています。この意見も影響し、多くの関係者から「クリエイティビティの日韓関係」を作るためにも現地推進本部の機能を中止するのはもったいない、継続させていくべきだという意見が盛り上がってきました。その結果、この機能を「日韓Friend‐Ship Committee 06」と名称変更して、韓国において両国の文化交流事業を推進していくことになり、主事業を「日韓交流おまつり」におくことにしました。そして、これを今後も継続していくという意志を表して、名称に年度を入れることにしました。

かくして、「日韓交流おまつり2006」(http://kojafe.org/www/2006/index_j.htm)は駐韓日本大使館(外務省)の主導で、企画・準備は日本側事務局(旅行会社)にお願いし、SJCは「おまつり」運営をサポートすることでスタートしました。実行委員会を両国に発足させ、委員長には日本側が平山郁夫画伯、韓国側は漢陽大学の金容雲名誉教授にお願いし、経済、学術、音楽などの分野から委員としてメンバーに加わっていただきました。

9月23、24日、天高く馬肥ゆる秋の汗ばむ日差しの中、「おまつり」は大学路周辺で開催されました。大学路では「ステージ公演」、「パレード」、マロニエ公園は「サブステージ公演」で両国の様々な伝統文化が披露されました。特にパレードは「リズム&パワー」、「日韓伝統芸能」、「日韓よさこいフェスティバル&竿灯」の3部構成からなり、日本側から岩手の「鬼剣舞」、沖縄の「琉球舞踊」、熊本の「天草ハイヤ」、青森の「津軽三味線」、「秋田竿灯」など17団体、韓国側から「安東苧田洞農謡」、「錦山ノングバウクシギ」、「獅子仮面踊り」などの地方無形文化財をはじめとして31団体が参加し、前年同様、約5万人の観衆の中で盛大に催されました。なかんずく、ソウル日本人学校の生徒とソウル駐在の日本人有志による「よさこいアリラン踊り」は沿道から大きな喝采を浴び、駐韓日本人の大きな自信となりました。

「おまつり」の効果は市民のみならず、両国政府やソウル特別市にまで影響を及ぼしました。この年の秋に行われた日韓外相会談で、藩基文外交通商部長官(現在の国連事務総長)から、翌年の早い時期に韓国側も日本で同様の行事を開催したい旨の表明がありました。また、ソウル特別市からも翌年の「おまつり」に参加したいとの意思表示がありました。
一方、大使館(外務省)主導とはいえ、前年と異なり、日本国政府からの予算付けは殆どなかったため、一番の問題は協賛金集めでした。前年の規模には及ばないとはいえ、本当に幸いなことに日韓の多くの企業、またSJC法人会員企業から約4億ウォン規模にもなるたくさんの支援をいただくことが出来ました。

2007年の「日韓交流おまつり」
3年目となる2007年は、前年の反省を踏まえSJCの会員を中心とする熱意あるボランティアから、自分達の思い通りのおまつりを作ってみたいという気運が高まってきました。この気運の高まりに、日本大使館・外務省もボランティア活動を後方から支援していくことに賛同してくれました。平山郁夫画伯、金容雲名誉教授も前年同様、それぞれの実行委員長就任の意を示され、メンバーは喜色満面で準備を始めました。素人のボランティアであるが故に、我々の思いのこもったおまつりにしようという総意で、日韓両国人のコラボレーション、即ち、「ビビン(混ぜ合わせる)状態を作るおまつり」を想定し、テーマを“ともに作る友情の輪”、キーワードを“見て触れて語り合おう”としました。一人でも多くの市民が見て、触れて、語り合ってもらうために、できれば会場はソウル市の中心である市庁舎前広場であったならというのがボランティア全員の夢でした。一方、日本側実行委員会からは“ソウルのど真ん中で日本の祭りを演じるのはリスクが高いのではないか”という心配の声があがりました。しかし、我が夢が天に通じたのか、ソウル特別市が「Seoul」の名前を入れることを条件に、大学路に替わって市庁舎前広場と清渓川周辺の使用を許可してくれました。従って、名称を「日韓交流お祭り2007in Seoul」(http://www.kojafe.org/)としました。

10月下旬のソウルの朝晩の冷え込みは相当なものであることを十分承知した上で、開催日を10月20日、21日の週末にしました。その理由は、その年で400周年記念を迎える「朝鮮通信使」の一行が江戸(日本)を訪問し終えて、帰朝パレードを市庁舎前広場で行うという日時に合わせかったことによります。冷え込みは十分に承知していたとはいえ、それでも初日は最低気温3.2度、最高気温9.6度、平均気温6.2度、北の風風速4m・・・なんと、想像をはるかに超える寒い日となりました。しかし、日本から22団体約500人、韓国から40団体約1500人の参加者はこの寒さを物ともせず、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。今回は、うれしいことに、韓国側からヨンガン高校マーチングバンド、ソウル女子商業高校、韓国外国語大学、東国大学、祥明大学、日本側からはPL学園高校バトンチーム、岩手県岩谷堂農林高校鹿踊り、島根県浜田高校石見神楽、熊本県鹿本農業高校山鹿灯篭、静岡県赤石太鼓などの参加があり、大学生、高校生を中心に若者の活躍が目立ちました。

第1部ステージでは、珍島の太鼓ノリ、琉球音楽、済州島海女踊りなどの両国の伝統芸術が交互に披露されました。ステージ最後の日韓両国の子供混声による清純な合唱は観衆の心を揺さぶり、私も感無量からつい涙を誘われ、ふと見ると隣の白髪頭の韓国人も目に涙を浮かべて聞き入っていたのが忘れられません。
第2部パレードは、夕闇迫る中、清渓川から市庁舎前広場までの道のりで行われました。日本からは岩手鹿踊り、島根石見神楽、秋田竿灯など13余の地域伝統芸能が、韓国からも済州島七十里民族芸術団、固城農謡、峰山タルチュムはじめ10余の地域伝統芸能が寒さを吹き飛ばしながらパフォーマンスを繰り広げ、観衆の目を釘付けにしました。パレード最後は、400周年を記念して日本から帰朝した「朝鮮通信使」一行が威風堂々と行進し、沿道の観衆は惜しみない拍手を送りました。
第3部ステージは、めっきり冷え込んだ夜寒の市庁舎前広場で、朝鮮通信使一行の正史がソウル市長(代理)演じる朝鮮王に帰朝報告をするセレモニーからスタートし、日韓の音楽、舞踊が交互に演奏され、熱狂は次第に高まっていきました。最後の珍島ガンガンスウォルレでは、踊り手が舞台から観衆の見守る広場に舞い降り、見守る老若男女と手に手をとりあって“ガ~ンガ~ンスウォルレ~”と大声で歌いながら一緒に踊りに興じ、いつしか大きな輪ができました。この瞬間、市庁舎前広場はまさに我らが思いの「ビビン状態のおまつり」になり、日本人と韓国人が一体化し、天地を駆ける歓喜が生みだされたのでした。
9時近くなったプログラム最後には日韓の架け橋になりたいという人気歌手ユンナさんのミニコンサートで「おまつり」のフィナーレを飾り、寒さにも拘わらず興奮している観衆に感動を与え余韻を残しました。

翌日の清渓川広場前のステージは両国の若者が交じり合って賑わい、日韓の明るい未来を象徴するかのようでした。日本からの観光客も含め約7万人の両国人がまさに、“見て、触れて、語りあう”ことにより日韓のおまつりや音楽、舞踊などの文化の相互理解が深まったと確信することが出来ました。それに、“ソウルのど真ん中で日本の祭りを演じるのはリスクが高いのではないか”という心配は全くの杞憂に終わりました。

前年度からの繰越金もなく、民間(SJC)主導のボランティア活動でスタートしましたから資金的な裏付けがない中、当初は企画立案も不安の連続でした。しかし、日本大使館公使の精力的な協賛金募集活動などにより、韓国国内企業をはじめ、ソウル特別市ほか関係所管から、そして外務省による日本企業への働き掛け、また、なによりもSJC法人会員企業の積極的な協賛などの温かいご支援を頂き、約7億ウォンの協賛を得て、計画以上の規模の「日韓交流おまつり」を実現することが出来ました。

日韓における祭りの違い
3回の「日韓交流おまつり」を通して、多くの方が両国の「祭りの違い」と祭りを生み出した「歴史の違い」を感じ取ることができたと思います。
あくまでも私見ですが、両国とも庶民中心のおまつりには違いありませんが、総じて韓国の祭りは収穫祭、田植え祭り、海女踊りなどの農業・漁業に直接係わる素朴な、生活に根ざした祭りが多く、地方ごとの差は余り感じられません。これは長い間の中央主権的政治が色濃く影響しているのではないかと推察できます。一方、日本の祭りはそれぞれ地域ごとの特色が見られ、生活の節目節目で行われる華やかな、祝典的な祭りが多いことを感じます。これは国内の戦乱が静まり、社会が安定し平和になった江戸時代以降の文化発展と地方分権的政治の影響であると思われます。

「日韓交流おまつり」のテーマ・キーワード
テーマ・キーワードはその年度の「日韓交流おまつり」のストーリーを表すタイトルです。
2005年は日韓国交正常化40周年を記念する年でした。この年の記念行事全体のスローガンは“進もう未来へ、一緒に世界へ”でした。それに呼応して、「日韓交流おまつり」では隣国として長い歴史を共有し、“似ているけど違う、違うけど似ている”両国が、言いたいことが言いあえるイーコールパートナーとして、本当の友達になることを目指しました。こうして、 “似ているけど違う、違うけど似ている”が「日韓交流おまつり」のテーマに決まりました。

2006年は日本大使館(外務省)の主導で、企画・準備は日本側事務局(旅行会社)にお願いし、SJCは「おまつり」運営をサポートするという体制で実施されました。このような状況を反映して“日韓市民と自治体による祝祭”がテーマとなりました。

2007年はSJC会員を核とする熱意あるボランティアが主導して、日本大使館(外務省)の後方支援を受けることになりました。素人のボランティアであるが故に、我々の思い通りの「おまつり」を作ろうということで、日韓両国人のコラボレーション、即ち、“ビビン状態を作る「おまつり」”を想定し、テーマを“ともに作る友情の輪”、キーワードを“見て触れて語り合おう”に決定しました。

おわりに
祭りとは概して言うと、各国のそれぞれの地域共同体の中で創造され、伝承されてきた、その国独自の伝統的な文化であると思います。今、我々は地域の枠から国境を越えて日韓のスパンまで大きく広げ、両国の「伝統的な祭りの特色」と「現代的な祭りの特色」を調律してハーモニーを奏でながら、両国の絆を結ぶ21世紀の新たなる文化世界・文化的なパラダイムを共創しようとしているのです。言い換えれば、我々は「日韓交流おまつり」を通して、隣国であるが故に蓄積れてきた負の遺産をなんとしてでも乗り越えようとともに手を取り合って、日韓共同の新しい文化を創造しているのです。

昨年3月に日本の外務省を訪問した折に、参事官室の壁に「日タイ友好親善120周年記念」のポスターを目にしました。“韓国よりはるかに遠いタイ国との友好親善が120年間も続いている。何故、隣国韓国とは続いていないのだろうか”と素朴な疑問が脳裏をかすめると共に“タイとは出来て、韓国と出来ないはずはない”との強い思いを持ちました。

「日韓交流おまつり」はまだ、産まれたばかりかも知れません。それでも、いや、それだからこそ120年先を見据えて、次代を背負う若者達にこの「おまつり」の意義を是非とも伝えたいのです。そして、両国の行き先を示す “北極星”のような存在であり続けて欲しいのです。雲行きが怪しくなれば北極星は見えなくなります。この輝きを見失わないようにすることがわれわれの務めであると信じています。この「日韓交流おまつり」が日韓両国民の間に広く知られ、それぞれの社会に深く根を下ろして、両国が本当に「近くて近い国」、「真のイーコールパートナー」となる役割を果たすことを切に願う次第です。
(2008、2、20)

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