晋州にて思う

崔碩義(チョイソクイ)

この春、私は慶尚南道の泗川(サチョン)に立ち寄った後、歴史の街晋州に行った。

泗川から晋州まではバス。ここのバスは道路で手を振る人も気前よく乗せていく。やがて、 南江に沿って背後が切り立つ崖道が続く。この崖道がどうやら晋州に入る関門の役割をし ているようだ。晋州橋を渡ると、そこが終点のバスターミナルで、晋州の中心街である。 南江は市内を縫うように悠々と流れ、晋州城がこの南江を見下ろすように位置する。ひと きわ美しく立っているのがチョク石楼である。

晋州は現在、人口三十万を越す慶尚南道の西南部の大きな都市だ。大学だけでも六つもあ るのだから。バスの車窓からは、白いマンションが林立しているのが眺められた。こうし たお化けのようなマンションの林立は、今では韓国のどこにでもあるありふれた風景だ。

市内の通りをぶらぶらと歩きながら、あたりを見物。そもそも旅人の楽しみの一つはおい しい食べ物にありつくことにあるが、一人旅ではそれもままならない。とある食堂に入っ て晋州名物の「ピビンパ」を食す。だが、その味、可でもなく不可でもなし、まあまあ。

晋州は歴史の一杯詰まった都市である。任辰倭乱の時の爪跡は、国内至るところに散在す るが、その中でも最大の傷跡を残しているのが晋州なのである。また1862年に全国に さきがけて起こった「晋州民乱」はよく知られる。さらには、1923年4月、「白丁も 人間だ」という諺を掲げて決起した「権平社」人権運動の発祥の地でもある。

さて、任辰倭乱のとき晋州は三度にわたって日本グンの攻撃にさらされた。最初のときは 朝鮮側の頑強な抵抗にあい、日本軍は敗走した。2回目の侵攻は、翌1593年6月、豊 臣秀吉の厳命によって、9万3千の兵力を動員して、晋州城を猛攻。この時城内にいた官 軍と義兵六千5百余りは、非難してきた民衆約六万と力を合わせ、十日間にわたって必死 に抗戦したが力及ばず、ついに落城。朝鮮側の軍民はほとんど全滅。六万余りの犠牲者を 出した。死者の多きこと史上類例を見ない。

戦いのあと、日本軍は方々から美女と妓生をかき集めて、チョク石楼で掌理の宴会を開いた。 その中に晋州官妓論介の姿があった。わざと盛遊していたが、そのとき論介はすでに、適 将の一人を殺して自分も死のうと固く決意していたのである。

宴まさにたけなわの頃、論介は適の武将である毛谷村六助をチョク石楼の下の岩の上に巧 みに誘い、酒を飲み交わし、しこたま酔わした。そして隙をみて毛谷村を後ろから羽交い 締めにして、川に身を投げてともに死んだ。

それ以来、論介が殉死した岩を「義岩」と呼び、さらに「義妓祠」を建て、その愛国行為 を称えてきた当時の有名な文人柳夢寅が一介の妓生が国の為に自分の命をなげうった行為 に感動して「於上野談」に書いたのが、論介についての最初の記録である。

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