「祖母のこと―遠い昔の思い出」

崔 碩義

 葉が散ったあとの裸木を見るにつれ、何となく物寂しい思いにとらわれる季節になった。それでつい、 テレビを見る時間が多く、この間は番組の名は忘れたが出演していたある八十歳を超したおばあさんの 丸顔が、どことなく私の祖母の面影に似ているのに驚かされた。それに触発されてか、遠い日の祖母の ことが脳裏に去来して懐かしかった。

 H氏賞を受賞した在日の詩人崔華国はかつて「チマ三枚」という詩のなかで、家庭の幸福は帰すると ころ「賢母、良妻、嫁の三枚のチマパラムの中にある」と、ちょっぴりノスタルジアを込めて詠ったこ とがある。わが家のチマパラムはまさに祖母であった。祖父は、ただ頑固なだけで影の薄い存在でしか なく、また、父と母は祖母に対してはひたすら従順だった。そんなハルメは孫の私にだけは、どこまで も易しかった。

 名前は朴毛南(一八八八~一九六二)。祖母がこんな名前をもっていたことは、後に戸籍謄本を見て 知ったが、私はずっと「ハルメ」と呼んできた。ハルメは子供のとき天然痘をわずらった後遺症があっ た。私はそんなアバタづらのハルメが大好きで、そのチマにぶらさがって幼童期を過ごしたのである。 もちろん解放前のことだ。

 当時、私たち一家は、大阪市大正区小林町の朝鮮人密集部落に住んでいたが、日曜日になるとハルメ は必ず、私を連れて木津川をポンポン蒸気で向こう岸に渡り、今宮のエビダン(キリスト教会)に行き、 そこで礼拝し、讃美歌を楽しく歌ったものである。

 それまで文字の読み書きができなかったハルメは、聖書を読み、讃美歌の歌詞を覚えたい一心でハン グルをマスターした敬虔なクリスチャンであった。また、わが家の祭祀(ジェサ)などもイエス・キリ ストの教えに反するといって強く抵抗していたようである。ハルメは一言でいって心の強い女性だった のである。後に私は、キリスト教にではなく、一時「赤い宗教」に凝って、いささかハルメの期待を裏 切ったことを申し訳なく思っている。

 その後、解放の日を迎え、私たち一家は喜び勇んで帰国した。しかし、故郷では失業者が巷にあふれ、 社会的混乱は想像を絶していた。しかもショックだったのはハンセン病患者が多かったことだ。患者た ちは食事どきになると、決まったように食器を持ってわが家にも現れ、食べ物を乞うのであった。短気 な父は手を振り回して「よそへ行ってくれ、わしらも食えないんだ」と怒鳴ったが、心根のやさしい祖 母だけは、患者たちにいつもわずかではあるが食べ物を分け与えていた。それから祖母は、よく私をつ かまえて「可哀相に、神様も不公平なことをなさるものだ」と、天を仰いで嘆くのであった。私が後に ハンセン病にいささか関心を持つようになったのは、こうしたハルメの影響である。

 私はこんど帰郷したら、祖母の墓に参るつもりでいる。

 <筆者紹介>

 チェ・ソギ フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒、朝鮮近代文学専攻。

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