ハメル漂流記念碑を見る

崔 碩義

 済州島に着いた日、さっそくアワビのお粥を食べる。同じくアワビの内臓で作った塩辛は甚だ珍味。私はもっぱら雑食性だ。この島の名物チヤリヘや仔豚の子宮? の味が絶品であるのは聞いている。旅行の楽しみは食にあるといっても決して過言ではないのである。

 モスルポ行きのバスに乗って安城里の「秋史謫居址」を訪ねる。その展示館には多くの書帖、扁額、対聯、絵画、印譜などが陳列してあり、かの有名な歳寒図や墨蘭も見られた。四棟の草葺きの住居は流刑人の住まいにしては立派に見えた。おそらく土地の有力者が自分の家を提供したものだろう。

 金正喜(一七八六~一八五六)は秋史、阮堂などの号をもつ両班名門出身の実学者で、虚な議論を排し、事実を土台にして真理を追究する事実求是を主張した。それに何といっても「秋史体」を大成させた朝鮮書芸界きっての巨人である。秋史は党争のとばっちりを受けて、五十五歳から約九年間を済州島大静の地で流配生活を送った。その間、数え切れないほど多くの詩文と書画を書いた。謫居中に、国許の夫人が死んだという悲しい消息に接し、次のように哭している。

   配所にて妻の死を悼む
 あの世の役人と仲人に訴えてでも
 来世には夫婦が立場を替えて
 私が死に、君はどこまでも生きて欲しい
 私のこの心の悲しみを君に知らしめたい

 次いで、秋史謫居址の近くにある「ハメル漂流記念碑」を訪れる。記念碑は錨を模したスマートな石造りで、約三百五十年前に遭難した海を見下ろす場所に立っていた。そこからの眺望の見事さに私は思わず声をあげた。

 鎖国中の朝鮮に、初めて西欧人(オランダ人)のヤン・ウェルテフレーら三名が済州島に漂着したのが一六二七年で、その二十六年後の一六五三年八月、オランダ人のヘンドリック・ハメルら一行三十六名が乗ったスペルウェール号が済州島沖で難破し、大静県の海岸に漂着するのである。その後のハメルらの苦難については、『朝鮮幽囚記』(東洋文庫・平凡社)にくわしい。遭難者全員はいったん都の漢陽に移されるが、のちに全羅兵営(康津)に兵士として配置される。そこで熱病とか飢饉などで十数名が死亡する。漂着してから十三年後、幸い、ハメルらは小舟を調達して日本の五島列島に脱出することに成功する。こうして本国オランダに帰還することができたのである。

 ところで、ハメルよりももっと数奇な運命に翻弄されたのは、最初に漂着した同じオランダ人のヤン・ウェルテフレーの場合である。彼は結局、朝鮮に帰化して朴燕と名乗ったが、人格、見識ともに優れていて訓練都監(軍隊)に勤務した。朴燕は自分の運命を天命として受け入れ、朝鮮女性と結婚し、二人の子供までなしたのである。

<筆者紹介>
 チェ・ソギ フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒、朝鮮近代文学専攻。


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